◇上地流唐手のご紹介              2013.7.6更新 

〜中国福建省福州⇒沖縄⇒和歌山⇒大阪⇒兵庫⇒沖縄⇒関東、海外へと伝承された奇跡の唐手史〜

 
※下記史実は、既出書籍等からの引用ではなく、5年間にわたる現地取材に基づき収取整理したものであり、当協会が初めて公にする情報が多数含まれております。
 特に流祖・上地完文については、伝説、風評や推量によらない、等身大の人間像を残すよう心掛けました。

 世界に多数の愛好者を抱える空手(唐手)は、そのほとんどが沖縄にルーツを持つと言われています。この事実を知る方は意外と少ないようです。


  沖縄では、古く琉球王朝時代から手(ティー)と言われる武術が武士階級の人々の間で伝承され、さらに中国との交易によって唐手(トゥディー=中国伝来の拳法)も盛んになり、一部は融合しながら今日の沖縄空手(唐手)に発展してきました。


  私ども協会が伝承する上地(うえち)流唐手は、現在、剛柔(ごうじゅう)流、小林(しょうりん)流、松林(しょうりん)流とともに沖縄空手(唐手)四大流派の一つとして認知され、世界各地に多数の普及組織や道場が存在します。


  流祖・上地完文(1877−1948)は、1897年、心に期するところがあり、琉球・本部(もとぶ)町を後にして、中国(当時清朝)福建省に拳法修行の旅に出ました。


  琉球にも明治政府の徴兵制が施行されることを忌避しての密航だとされていますが、先に福建省で拳法修行の経験がある同郷のA氏に触発されたこともきっかけのようです。


 

 上地完文



上地完文生誕の地(本部町)


 


 完文は、渡清後、紆余曲折を経て、福建省の州都・福州で、南派少林拳(虎形拳)の名手、周子和(1874−1926)と運命の出会いを果たします。

 
  周子和は福州市郡部の有力な地主家系で、完文は住込みで働きながら拳法を学んだようです。現地には現在でも周子和の自宅兼道場が残っており、ひ孫に当たる方もご健在です。また、周子和四代目に当たる師範も、福州市内で虎形拳を伝承・普及されています。

 
  完文は、師の元で約10年間の修行を経て晴れて免許皆伝。都合13年間にも及ぶ苦難の鍛錬精進によって、三戦(サンチン)、十三(セーサン)、三十六(サンダールイ)の三つの型と小手鍛え(体錬方法)、打ち身薬の製法などを修得しました。

 
  修行の過程で当然ながら福建語もマスターし、晩年には、沖縄を商売で訪ねてきた中国人との交渉、通訳なども買って出たというエピソードが残っているほか、立派な漢詩を筆耕して門弟たちを驚かせています。

 
  1910年、自身が福建省で開設した道場の門弟がある事件に巻き込まれ、元々密航による不法滞留者の身であった完文は、その責任を取って、排外運動が盛んな中国を後にせざるを得ない状況となり、完文を慕う門弟や村人たちの協力によって、清人を装って再び琉球の地を踏むことになりました。


  異国での生活にもすっかり馴染み、もう琉球には戻らない覚悟であったとも言われており、さぞや不本意な帰国であったかと思われます。

 




周子和



周子和自宅(道場)近隣の様子
福州市内から車で約1時間です
完文も、自身の修行の地について
「山深い村であった」と語っています
 

  帰国後、完文は地元の子供たちに請われて時折拳法の手ほどきをするほかは、黙々と農業に従事して妻子を養い、武術家としてはほぼ沈黙の時期を過ごします。前述のような出国、帰国の事情や、元々の寡黙な性格がそうさせたのでしょう。 

 
  しかしながら、その武名は徐々に琉球の空手(唐手)家や村人たちに知れ渡り、ある村祭りで懇願されて渋々応じた演武によって、公に指導を望む声も一層高まるなど、一農夫として静かに暮らすことがままならなくなりました。

 
  また、当時の経済恐慌(琉球では「ソテツ地獄」と呼ばれた)による生活苦を解消すべく、1924年、単身で和歌山の紡績工場に職を求めて転身しました。完文47歳の時です。当時は沖縄から関西方面に出稼ぎをする人々が多数いて、ある知人の紹介で就職先を見つけたようです。


 和歌山へ転居した完文は、昭和紡績・手平工場で守衛として仕事に邁進する日々でしたが、あることをきっかけに、伊江島出身の青年で、同じく昭和紡績に勤務する、友寄隆優(1897−1971)に拳法を教えることとなり、会社社宅の一室で秘密裏に指導を行いました。(社宅道場時代)


  しかしながら、当時手平には多数の沖縄出身者が工場勤務者として暮らしており、1932年、遂に彼らの熱望に応える形で、自宅兼道場を開いて正式な教授をスタートしました。(「パンガヰヌーン流空手術研究所」)まさに、上地流が正式にこの世に産声をあげた瞬間でした。友寄隆優を始めとする若者達の熱意が無かったら、恐らく上地流はこの世に存在しなかったことでしょう。


 (注)パンガヰヌーンとは、福建語では「半軟硬」と表記し、その意味は「鋭く素早い技を特徴とする拳法」で、福建省に伝わる南派少林拳諸流派に共通する特性、拳質の意味と言われています。
 従来「半硬軟」と表記されてきましたが、2012年8月に当協会が福州市武術協会と共催した交流会において、現地の先生方から、発音的にも「半軟硬」が正しい表記とのご指摘を頂いています。






和歌山市手平の紡績工場(和歌山紡績)
(大正10年頃の撮影)





和歌山市手平の自宅兼道場前で門弟たちと
(前列左から二人目が友寄隆優、
中央が上地完文、その右が完英)

玄関前で東向きに整列して撮影された写真です


 
  このパンガヰヌーン流空手術研究所からは、完文初の門弟である友寄隆優(現・和歌山隆聖館創始者)や、子息・上地完英(1911−1991)などの多数の優秀な門弟を輩出し、1934年には、当時関西圏で普及途上にあった糸東(しとう)流創始者・摩文仁賢和との交流も研究所で実現しています。


  地道な鍛錬修行によって晴れて免許皆伝となった完英は、新たな職を求め、1937年、和歌山から大阪西成区に転居。完文が伝える唐(空)手術を普及すべく、鶴見橋通りに自宅兼支部道場を構えました。(跡地は調査の結果既に判明)

  1940年、完英は夫妻で兵庫県尼崎市に転居。勤務先(鐘ヶ淵紡績社)社宅で道場を開き、同時に流派名を「上地流」空手術に改めました。(流派名の改称については、1934年に研究所を訪ねた糸東流・摩文仁賢和が完文に提言を行っています)




上地完英が支部道場を構えた鶴見橋通り周辺

糸東流・摩文仁道場もこの写真近辺にありました

 第二次世界大戦が拡大する1942年、完英は和歌山に父完文、尼崎に多数の門弟を残し、沖縄に戻って道場を開設。遂に故郷で指導を開始しました。(名護・宮里)まさに、上地流が沖縄で息吹を始めたのです。

  その後、凄惨な戦争は終焉を迎え、1946年に完文が沖縄に帰郷。完英とは別に伊江島で道場を設け、最後の門弟を育てながら、遂に2年後に逝去しました。享年71歳。亡くなる間際まで、鍛錬と指導を欠かさず、まさに武人としての生涯を全うしました。

  二世・完英は父・完文の遺志を継ぎ、技法に独自の工夫・改良を加えながら、沖縄駐留の米軍将校などにも積極的に指導を行い、徐々にその名声を高めて行きました。後日、その将校達が米国に帰国して退役後に次々と道場を開設し、今日の海外普及のきっかけとなったのです。

 一方、戦後本土に就職で転居した門弟たちの手によって、関東圏にも新しく道場が出来たほか、研究所や尼崎道場の系譜を引く門弟たちによって、関西圏(和歌山、大阪、兵庫)でも徐々に道場が増えて行き今日に至ります。

 上地流は、技法的には、指を開いた状態での輪受けや平手構え、掴み技、貫手や足先蹴りによる急所へのピンポイント攻撃、三戦、小手鍛えによる徹底的な体錬などが特徴で、接近戦を前提とした実戦的な攻防スタイルによって、近代沖縄空手諸流派のなかでも、ひときわ異彩を放つ存在となっています。




上地完英



尼崎道場跡地
(完英の門弟が終戦直後に開いた道場跡地)



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